『エストニア紀行』梨木香歩著

昔、ニュージーランドの南島をドライブしたときのこと。当時住んでいたダニーデンという町から内陸の方へ車を走らせると、すぐに一面の荒れ地となり、次の町までは数十キロメートルもあるとの表示。ときどき羊や牛はいるものの、民家や人影は全くありません。

日本であれば、町から町へと車を走らせても民家が完全に見えなくなるということはそうそうないでしょう。しかしニュージーランドでは町を出るとそこには巨大な「空間」がありました。

この記憶は自分にとって外国というものの原風景になっています。それもそのはず、ニュージーランドは日本の約4分の3の面積に400万人程度が住んでいる国で、人口密度は日本の約20分の1なのでした。

梨木香歩さんの「エストニア紀行」の舞台になっているエストニアも人口は約130万人。ヨーロッパ北東部の小国です。本書の中で、首都タリンの観光を終えた一行が、車で内陸の街タルトゥに向かう描写が出てきます。

だんだん車窓から家が消えていく。車はさらに郊外へと走り続け、広い畑と、森の断片のようなものだけになっていく。

P52

このような描写を読んでいて、ふと昔見たニュージーランドの広大な荒れ地を思い出したのでした。エストニアという国には全く馴染みがなく、おそらくエストニアについての本を読んだのも初めてですが、不思議と懐かしい感情が涌き上がってくるのです。

旅というのは、慣れれば慣れるほど「非日常」という感覚が薄れて行くものだと思います。しかし旅慣れているはずの著者によるこの旅行記で非日常感がふんだんに漂っているのは、一つは舞台がエストニアという珍しい国であること、もう一つは旅の日常を描写する著者の感性が独特のものであることが大きいのではないでしょうか。

本書には幽霊が出てくるホテルや、ヒル治療を行うおじいさんなど、強烈なエピソードも出てくるのですが、読み終わって印象に残るのは、むしろ空港で本を買い込むエピソードや、タリンとトゥルクを行き来する車窓からの風景描写だったりするのです。派手なエピソードよりも旅の中の日常に感応している自分がいました。

 

著者は自然や野生動物に対する思い入れのある人で、コウノトリの渡りを見ることが旅の目的の一つとして挙げられています。その目的が果たせたかどうかは本書を読んでいただくとして、自然に対する深い洞察や、ヒトという種族について、また現代の文明批評など、さまざまな随想が旅のエピソードとともに語られて行きます。読者はそのあたりの著者の思いに共振しつつ、エストニアを巡る旅を追体験していくことになります。

本書にはエストニアの街頭や風景の写真もたくさん納められています。その中でも鮮やかな色彩の民族衣装を着たエストニアの人たちは、強く異国情緒というものを感じさせてくれます。

それから一つこれは面白いと思ったエピソードは、エストニア本土と近隣の島の間の海が冬の間は凍ってしまうため、氷上に車の通行路ができるというエピソード。バルト海は湾状になっているため、もともと外海との海水の循環が少なく、そこへ近隣の河の水が流れ込み塩分濃度が低くなるため凍ってしまうのだそうです。氷上を車で走るというのは、なかなかスリルがありそうですね。

そしてこの本を読み終えての最初の感想は「しばらく旅をしていないな」ということ。仕事を持っていてしばらく旅らしい旅をしていない人におすすめの一冊だと思います。

 

エストニア紀行: ――森の苔・庭の木漏れ日・海の葦
梨木 香歩
新潮社
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