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日本語

「いる」と「ある」

photo credit: P1030297 via photopin (license)

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There is a cat on the bed.(ベッドの上にネコがいます。)
There is a book on the desk.(机の上に本があります。)

英語ではどちらも同じ there is〜 の構文。

しかし日本語に訳すときには「いる」と「ある」を使い分けなければなりません。

人や動物など主語が動くものなら「いる」、動かないものなら「ある」というのは、日本語ネイティブなら意識することなく使い分けられるところ。

しかし日本語を外国語として学ぶ人にとっては、果たしてどうなのでしょう?

日本人にとって冠詞の使い方が難しいように、自分の母語で区別しないものを区別するというのは難しいもの。

ネコは。。。えーと、動物だから。。。います!

というように、立ち止まって考える必要があるのかもしれません。

日本人が英語を学ぶときに「冠詞って何のためにあるの?」とか「単数・複数って何のために区別するの?」なんて、日本語にないルールを槍玉に挙げることがありますが、英語ネイティブの視点から日本語を眺めてみれば、この「いる」と「ある」のように他言語には見られない区別をすることも多々あります。

日本語ではなぜ「いる」と「ある」を区別するのですか?

と聞かれたら、何と答えるべきでしょうか?


段取り/ダンドリ

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先日、何となく電車の窓上広告を見ていたら、ゼクシィの広告で「結婚のダンドリ」という文言が目に付きました。

「ケータイ」のように、さまざまな日本語がカタカナ表記になる昨今ですが「ダンドリ」というのはあまり見たことがなかったような気がします。

段取りを「ダンドリ」とカタカナで表記することのメリットは何でしょう?

思い付くままに挙げてみれば、

  1. 何となくおしゃれな感じ
  2. 普段と異なる表記にして耳目を引く
  3. 地味な作業をイベントっぽく見せる

個人的には3番の要素が強いのかなあと思いました。

段取りを考えるというのは本来地味な作業。

でも「ダンドリ」と書かれると、何となく非日常な雰囲気が漂ってきませんか。

それならば引っ越しなども「ヒッコシの科学」などとカタカナ表記にすれば、楽しそうになるのかと思いましたが、必ずしもそうではないようです。

このあたりは、おそらくカタカナ表記に適した言葉と適していない言葉があるのでしょう。

そこを分ける法則のようなものが見つかったら面白いのですが。


ワープする心

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例えば、鎌倉で古いお寺の伽藍を見ているとき、

昔の人の暮らしぶりや心の内に思いを馳せることがあります。

当時の人というのはいったいどんな思いを抱えて、このお寺を訪れていたのだろう?

そんなことを考えているとき、私たちの心というのはその時代へ「ワープ」しているのだと、新明解に書いてありました。

ワープ

〔SFで、宇宙船が〕宇宙空間のひずみを利用して超高速飛行をすること。〔広義では、(心が)時間・空間を超えて瞬間的に移動する意にも用いられる。例、「本堂に向かって手を合わせ、歌をくちずさむと、心は平安朝にーする」〕

「新明解国語辞典 第七版」

語義には「(心が)時間・空間を超えて瞬間的に移動する」とありますが、考えてみると私たちの心というのは一日のうちに数十回あるいは数百回、時間と空間を超えて移動しているように思います。

だとすると、私たちの心にとって「ワープする」という行為は日常そのものなのかもしれません。


喫茶喫飯(きっさきっぱん)

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このところ、仕事で転勤があったり、引っ越しをしたり、バタバタした日々が続きました。

そのように生活が忙しくなると、気持ちが落ち着かなくなることがよくあります。

やるべきことが抜けていないか心配になったり、次のタスクが気になって落ち着いて休むことができなかったり。

気が付けば、いつの間にかマイナス思考に。

そんなときに思い出したい禅語の一つに喫茶喫飯(きっさきっぱん)という言葉があります。

これはお茶を飲んでいるときには、目の前のお茶を飲むことに集中し、ご飯を食べるときには、目の前のご飯を食べることに集中しましょうという意味。

実際忙しくなればなるほど、食事をしていても「味わう」という感覚がなくなってしまい、他のことを考えながら口だけを動かしていることがよくあります。

しかし目の前の一杯・一皿を丁寧に味わうことで、不安が徐々に遠のき、気持ちが整ってくるのは不思議なもの。

せわしない日常の中で自分を取り戻すために、そんなところから始めてみるのはどうでしょう?


春は花 夏ほととぎす

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1968年に川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの記念講演は道元禅師の有名な歌の引用から始まります。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり

Nobel Lecture by Yasunari Kawabata (short excerpt in Japanese) – Media Player at Nobelprize.org

もしこの歌を英語に訳すとしたら、どのような出だしになるでしょう?

??

冒頭の「春は花」からして、いったいどのように英訳したらよいのか思い浮かびません。

川端康成の「雪国」を始め、数々の日本文学を英訳したことで知られるエドワード・G・サイデンステッカーはこの歌を次のように訳しました。

In the spring, cherry blossoms; in the summer, the cuckoo.
In the autumn, the moon; in the winter, snow, clear, cold.

代案もないのにこんなことを言うのは恐縮ですが、苦心して何とか英語に置き換えたという感じがひしひしと伝わってきます。

俳句や短歌に見られるように日本語というのは簡潔な表現で余韻を持たせるのが得意。

この感覚を翻訳で再現するのはなかなか難しいのかなと思います。

もしかしたらこういった世界に魅せられて日本語を始める人も多いのかもしれません。


先生と後生

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「先生」の対義語は何でしょう?

と聞かれたら、おそらく普通の答えは「生徒」でしょう。

しかしちょっとひねって答えると「後生(こうせい)」という言葉もあります。

先生というのは、もともと読んで字の如く「先に生まれた人」の意味。そこから派生して「教師」の意味になりました。

一方の後生というのは「後に生まれた人」の意味。

日常会話で使うことはなかなかありませんが、論語の有名な一節に次のようなものがあります。

後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。

【原文】後生可畏也、焉知來者之不如今也

【一般的な和訳】 後輩はおそれるべきだ。将来の彼らが今の私に及ばないなどと、どうしてわかるものか。

【意訳】 全員が同意しただけで、それが真実だということにはならない。

Don’t make light of younger coworkers. They may get ahead of you sooner or later.

『英語で論語』より

考えてみると、この言葉の本当の意味が分かるようになってきたのはここ数年のことかもしれません。

後輩を見ていて「いつかはこの人に追い抜かれるのだろう」という感覚。

いや全然そんな気持ちになったことはない、という人はまだまだ若いのだと思います。

逆にしみじみとそれを感じるようなら、いつの間にか人生のステージを一つ上がったということなのかもしれません。

 

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