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とりどり

どれくらいの間、◯◯語を勉強していますか?

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外国語を学んでいる人なら、おそらく一度くらいは次のような質問をされたことがあるのではないでしょうか?

  • How long have you studied English?
  • Kuinka kauan olet opiskellut suomea?
  • あなたはどれくらいの間、日本語を勉強していますか?

こういった質問をされたときに、

「半年です。」
「たった半年でそんな上手に?」

という会話につながることはほとんどなく、

「3年続けているのですが、なかなか上達しなくて。」
「外国語って難しいですよね。」

という会話がにつながることが圧倒的に多いのではないでしょうか。

そういう意味では冒頭のような質問は外国語学習において「言わぬが花」の類いの質問なのかもしれません。

ただ改めて考えてみれば、外国語学習において「どれくらいの間、◯◯語を勉強していますか?」などというのは本質的に意味のない質問であるとも言えます。

なぜなら大切なのは期間よりも、トータルの時間と密度。

例えばある言語を3年間勉強したとしても、1日15分なら3年間で約250時間。1日1時間なら3年間で約1,000時間になります。(実際には1日15分でも毎日続けられる人の方が少ないでしょう。)

ある言語で日常レベルのコミュニケーションができるようになるまでに必要な学習時間が1,000時間なのか、2,000時間なのか、3,000時間なのかはわかりません。

ただ普通の人がこれだけの時間を確保するためには、人生のある時期に他のことを忘れて一つの言語に打ち込むという学習の「密度」も必要になるでしょう。

留学というのはこの密度を比較的楽に確保できる方法であり、逆に言えばこの密度さえ確保できるなら日本にいたままでも外国語を習得することはできるはずです。


運の良い人、悪い人

photo credit: houserockr WARP ACTIVATED via photopin (license)

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うん【運】

物事を成就させるか成就させないかの(命が全うされるか全うされないかの)、巡り合せ。

「新明解国語辞典 第七版」

例えば、電車に乗ろうとしてホームに下りたら、ちょうど電車が出ていった。

そんなときに「運が悪いなあ」と思う人もいれば、何も思わない人もいるでしょう。

あるいは、電車に乗ろうとしてホームに下りたら、ちょうど電車が入ってきた。

そんなときに「運が良いなあ」と思う人もいれば、何も思わない人もいるでしょう。

思うに運の悪い人というのは、ちょうど電車が入ってきたときには何も思わないのに、電車が出ていったときには運が悪いということを「意識」する人。

一方、運の良い人というのは、ちょうど電車が出ていったときには何も思わないのに、電車が入ってきたときには運が良いということを「意識」する人なのではないでしょうか。

運の良し悪しというのは、単にそんなちょっとした意識の問題なのかもしれません。

なお自分自身はどちらのタイプでもなく、ちょうど電車が出ていったときには「運を貯めることができた」、ちょうど電車が入ってきたときには「運を使ってしまった」と思うような人間です。

要はマイナスのことをプラスに、プラスのことをマイナスに解釈するという天の邪鬼な思考。ただ根底にあるのは「人間の運というのは一定のものだ」という考えです。

運の感じ方というのは、おそらく本当に人それぞれ。みなさんは普段どのように自分の運を意識して過ごしていますか?

 
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レストランで注文をするときに

photo credit: ninfaj Coffee Time via photopin (license)

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海外でカフェレストランなどに入ったときに、どのように店員さんを呼べばよいのか迷ってしまうことはありませんか。

回りのお客さんの振る舞いを観察していると、声をかける代わりに自然なアイコンタクトでコミュニケーションをとっている人が多いように見えます。しかしそのまま真似をしようとしても、気後れしてしまうせいか、なかなか上手にできません。

ただ一方では、日本にやってくる外国人観光客は別の難しさを感じているのかもしれません。

書棚に置いてあった旧版の中学英語の検定教科書『New Horizon 3』をめくっていたら、次のような一節に目が止まりました。

When you want to order in Japanese restaurants, you usually say, “Sumimasen,” in a loud voice. But in America, we just raise our hand and make eye contact. So I still have a hard time in Japanese restaurants. I always say, “Sumi…uh, uh, sumimasen,” too quietly. It’s not easy for me to get food. So I get very hungry.

外国の人にとっては、日本式に「すみません」と声をかけるのが高いハードルなんですね。

ただ今の日本では(少なくとも大衆的なお店では)ボタンを押して店員さんを呼ぶ仕組みを採用しているところも多くあります。

あるいはタッチパネルで注文までできてしまう居酒屋や回転寿司屋なども。

ああいう日本的な方法というのは外国人観光客の目にはいったいどのように映っているのでしょう?

「すみません」と声をかけるよりは楽だと思われているのか、それともさらにハードルが高いと思われているのか、果たしてどちらでしょうか。


世界史の教科書の中の北欧

photo credit: Miguel Virkkunen Carvalho Winter Scene via photopin (license)

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今、枕元に置いてあるのが山川出版社の『詳説世界史B』の教科書。

これを毎晩少しずつ読み進めるのが、最近のちょっとした楽しみになっています。

それにしても「世界史」と言うからには、北欧の歴史なども少しくらい扱っているものなのでしょうか?

索引から調べてみると、「第11章 欧米における近代国民国家の発展」の中にこんな記術がありました。

北ヨーロッパ諸国の動向

スウェーデンは北方戦争に敗れてバルト海の制海権を失い、北ドイツの領土もプロイセンに奪われた。しかし19世紀初めには憲法が制定され、やがて責任内閣制が成立した。ノルウェーはウィーン会議の結果、スウェーデン領となったが、独自の憲法をもち、1905年に国民投票により平和的に独立した。デンマークは、1864年にシュレスヴィヒ・ホルシュタインを失ったが、以後、農業・牧畜を主とする国づくりにつとめた。これら北欧3国はいずれも立憲君主制で議会の力が強く、政治・経済が安定し、外交面では列強主導の国際政治に関与しない自主的な平和路線をとり、国内の改革に力をそそいだ。

『詳説世界史B』P.271

教科書全体で北欧が登場するのはたったのこれだけ。3分の1ページ。

しかも気付いた人は気付いたと思いますが、スウェーデン・ノルウェー・デンマークの名前はあるのに、フィンランドについては言及なし。

どこかにフィンランドの「フ」の字くらいはないのだろうかと探していると、さきほどのページの一番下、注釈の部分にこんな一行を発見!

フィンランドも長くスウェーデン領であったが、1809年にロシアに割譲された。

That’s all.

もちろん教科書というのはスペースが限定されているのでやむを得ない面はありますが、「たったこれだけかーい」と寂しい気持ちになってしまいました。

この教科書を読み終わったら、いずれ北欧の歴史に関する本なども読んでみたいですね。


言語とは何か

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大学院時代の恩師K先生は、言語教育に携わる人間は常に「言語とは何か」ということを問い続けなければならない、とよく言っていました。

今回のエントリーでは、ある日の思考の断片をそのまま掲載してみたいと思います。

 

「言語とは何か」− ある日の思考

言語というのは道端に落ちている石のようなものではありません。ネアンデルタール人はある日、石を拾って「これは武器になるかもしれないぞ」と思ったのかもしれない。しかし言葉を拾って「これはコミュニケーションに使えるかもしれないぞ」と思ったわけではないでしょう。

あたりまえと言えばあたりまえのことですが、言語は「そこにあった」ものではなく「求めて得られた」ものなのだ、という事実はこの問いを考える上で重要な示唆を与えてくれるような気がします。つまり言語の本質は「機能」だということ。

ではその機能とは何かと言えば、やはりコミュニケーションということになるのでしょう。ただ「言語はコミュニケーションのツールである」という言説はシンプルで多くの人に受け入れられるものだと思いますが、その場合「コミュニケーションとは何か」という問いにも答えなければなりません。

その際に考えなければならないのは、言語というのは多様だということ。これは日本語や英語という言語の種別のことではなく、60億人の人間がいれば60億種類の言語があるということを言っています。

例えば日本語を母語とする人の集団は共通の言語を持っているという前提で係り合っていますし、日々の生活の中でいちいちそれを疑ったりはしません。

「ちょっとビールを買ってきて」とお願いすれば「スーパードライ」か「プレミアムモルツ」かはわかりませんが、何らかのビールを買ってきてくれることでしょう。間違っても「明治 おいしい牛乳」を買ってきたりすることはありません、

しかしこれが抽象的な言葉となると話は別です。

例えば「愛」という言葉が意味するものは人それぞれ。このギャップが人間社会の主な軋轢を生み出していると言ったら言いすぎでしょうか?

「この人の愛情の示し方は、私が思うものとは違う。でもそれを受け入れよう」などという寛容の精神を発揮するのは難しいこと。

しかし視点を変えれば、この多様性が人間社会のコミュニケーションの動力になっているのかもしれません。言語のギャップを埋めるために人々はお互いに言葉を尽くし、時には詩や物語という形式に託してメッセージを伝えようとします。

しかし仮に人類の究極の進化形態として言語における完全同一性(例えば「愛」という言葉から、全員が完全に同一の意味理解をする)が実現されたとしたら、いったい何が起こるのでしょう?

人々はお互いに理解し合い、心の平穏が訪れるのかもしれないし、あるいは新たな軋轢が生まれるのかもしれません。
(誤解に基づいた平和というものもあるでしょうから。)

どちらにしても私たちのコミュニケーションを支えていた何かが失われ、全く新しい世界が出現することでしょう。一つの思考実験として、じっくりと考えてみたいテーマではあります。


重陽の節句

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本日9月9日は重陽の節句なのだそうです。

ちょうよう【重陽】

九月九日の節句。

「新明解国語辞典 第七版」

せっく【節句】

〔祭日に特別の食物を神に供え、自分たちも食べたことから〕五節句(の一つに当たる日)。

「新明解国語辞典 第七版」

調べてみると、節句の「節」というのは季節の「節目」という意味。

そして五節句というのは、江戸時代に定められた次の5つの祝日のこと。

人日(じんじつ) 1月7日
上巳(じょうし) 3月3日
端午(たんご) 5月5日
七夕(しちせき) 7月7日
重陽(ちょうよう) 9月9日

 

1月7日の人日以外はきれいに奇数のゾロ目が並んでいますね。

3月3日(桃の節句)、5月5日(菖蒲の節句)、7月7日(七夕)に比べると、9月9日というのは一般にはあまり意識されていないように思います。

他の節句と比べて、何をしたらよいのかはっきりとわからないというのもその一因かもしれません。

  • 3月3日=雛人形を飾る
  • 5月5日=菖蒲湯に入る
  • 7月7日=短冊に願い事を書く
  • 9月9日=???

調べてみると、9月9日は旧暦で菊の咲く時期に当たることから、菊の節句とも呼ばれるのだそう。

きくのせっく【菊の節句】

陰暦九月九日に行なった節句。重陽(チョウヨウ)の節句。

「新明解国語辞典 第七版」

よって重陽の節句が盛んだった頃には、菊の花を生けたり、日本酒に菊の花を散らした菊酒を飲んだりしたそうです。

そのように聞くと、他の節句に比べて、大人の楽しみという感じがしませんか。

新暦では季節感が合わないのかもしれませんが、このまま廃れさせてしまうにはもったいない年中行事の一つだと思います。

 
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