「無」について考える

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鎌倉円覚寺の横田南嶺管長の法話を集めた『いろはにほへと』という本を読んでいたら、次のような一節に目が止まりました。

学生:無とはなんですか?

老師:辞書を調べると、「無」には実は自然・草が生い茂るという意味もあります。花が咲き、鳥がさえずるなど、天地自然の様子のことです。

『いろはにほへと 三』P.20

このあたりの仏教的、哲学的な議論をするための知識は残念ながら持ち合わせていないのですが、これを読んでいて「無」の辞書的な定義が気になったので、辞書をいくつか調べてみました。

まずは「広辞苑」から。

む【無・无】

  1. ないこと。存在しないこと。欠けていること。
  2. ㋐或るものがないこと。特定存在の欠如。何らかの有の否定。 ㋑いかなる有でもないこと。存在一般の欠如。一切有の否定。 ㋒万有を生み出し、万有の根源となるもの。有と無との対立を絶したものとされ、インド思想に見られ、老子などに説かれ、西洋にも古くからある。絶対無。

「広辞苑 第五版」

考えてみると、私たちが「◯◯がない」と言うときには、通常何かの存在を前提としています。

例えば「お金がない」と言うときにはお金というものがどこかに存在しなければならない訳で、もともとお金というものが存在しなかったならば「お金がない」という概念自体も存在しなくなってしまいます。

つまり「◯◯がない」という表現は「あるものがない」という意味で使われるということ。

しかし「もともと◯◯が存在しない」のだとすれば、「ある」も「ない」も消えてしまい、未分化の状態が立ち現れてくるということなのでしょうか。

続いて「デジタル大辞泉」の定義を。

む【無/×无】

  1. 何もないこと。存在しないこと。
  2. 哲学の用語。 ㋐存在の否定・欠如。特定の存在がないこと。また、存在そのものがないこと。 ㋑一切の有無の対立を超え、それらの存立の基盤となる絶対的な無。
  3. 禅宗で、経験・知識を得る以前の純粋な意識。「ーの境地」

「デジタル大辞泉」

こちらには、3番目の意味として禅宗における「無」がのっています。

人が生まれ落ちたときに明確な意識があるのだとすれば、誰もがみな一度はここで述べられているような「経験・知識を得る以前の純粋な意識」というものを持っていたということになるのでしょうか。

そうだとすれば、それがいったいどのようなものであったのか、思い出すことができないというのはとても残念なこと。

ただそういう境地に思いを馳せてみるというのはすごく面白いことだと思います。

わかっているつもりの言葉でも、改めて辞書を調べてみると、思いがけない世界が広がっているものですね。

 

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