言語における水まわりの問題

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この前のフィンランド語教室のときに、フィンランド人の先生が「日本語にはなぜ水とお湯があるの? 水は水なのに。。。」というようなお話をしていました。
今回はそんな水まわりの問題について考えてみたいと思います。
水とお湯の関係
フィンランド語・英語・日本語の「水」と「お湯」の関係を見てみると、次のようになります。
フィン | 英 | 日 |
---|---|---|
vesi | water | 水 |
kuuma vesi | hot water | お湯 |
フィンランド語・英語では「お湯」は「熱い水」という表現になるのに対して、日本語では「お湯」という別の単語を用います。
ただよくよく考えてみると、日本語においても水とお湯というのは対等の関係ではありません。
例えば「お湯は水なのか?」と聞かれたら、おそらく答えは Yes でしょうが、「水はお湯なのか?」と聞かれたら答えは No になるでしょう。
水とお湯という異なる単語を使っていても、水が総称であり、お湯はその一つの状態であるという点はフィンランド語・英語と同じ。
このあたりは言葉の表層だけを見ていると、なかなか気付きにくい点かもしれません。
水と氷の関係
フィンランド語や英語のネイティブスピーカーにとって、日本語の「水」と「お湯」という表現はやや奇妙に聞こえるのかもしれませんが、温度が低い方、すなわち「水」と「氷」の関係を見てみると、フィンランド語や英語においても、日本語同様に別の単語を用いていることがわかります。
フィン | 英 | 日 |
---|---|---|
vesi | water | 水 |
jää | ice | 氷 |
こうして見ると、言語というのは結局「そうなっているから、そうなっている」としか言えない面もあるのでしょう。
理屈の上では「氷」を「冷たい水」と表す言語のネイティブスピーカーがやってきて「英語にはなぜ water と ice があるの? water は water なのに。。。」というような感想を漏らすこともあるかもしれません。
ここからさらに「ぬるま湯の場合はどうなのか?」などと考えを広げていくと、世界を言語によって切り取るという行為の無限の可能性に行き当たってしまうように思います。