言語とは何か

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大学院時代の恩師K先生は、言語教育に携わる人間は常に「言語とは何か」ということを問い続けなければならない、とよく言っていました。

今回のエントリーでは、ある日の思考の断片をそのまま掲載してみたいと思います。

 

「言語とは何か」− ある日の思考

言語というのは道端に落ちている石のようなものではありません。ネアンデルタール人はある日、石を拾って「これは武器になるかもしれないぞ」と思ったのかもしれない。しかし言葉を拾って「これはコミュニケーションに使えるかもしれないぞ」と思ったわけではないでしょう。

あたりまえと言えばあたりまえのことですが、言語は「そこにあった」ものではなく「求めて得られた」ものなのだ、という事実はこの問いを考える上で重要な示唆を与えてくれるような気がします。つまり言語の本質は「機能」だということ。

ではその機能とは何かと言えば、やはりコミュニケーションということになるのでしょう。ただ「言語はコミュニケーションのツールである」という言説はシンプルで多くの人に受け入れられるものだと思いますが、その場合「コミュニケーションとは何か」という問いにも答えなければなりません。

その際に考えなければならないのは、言語というのは多様だということ。これは日本語や英語という言語の種別のことではなく、60億人の人間がいれば60億種類の言語があるということを言っています。

例えば日本語を母語とする人の集団は共通の言語を持っているという前提で係り合っていますし、日々の生活の中でいちいちそれを疑ったりはしません。

「ちょっとビールを買ってきて」とお願いすれば「スーパードライ」か「プレミアムモルツ」かはわかりませんが、何らかのビールを買ってきてくれることでしょう。間違っても「明治 おいしい牛乳」を買ってきたりすることはありません、

しかしこれが抽象的な言葉となると話は別です。

例えば「愛」という言葉が意味するものは人それぞれ。このギャップが人間社会の主な軋轢を生み出していると言ったら言いすぎでしょうか?

「この人の愛情の示し方は、私が思うものとは違う。でもそれを受け入れよう」などという寛容の精神を発揮するのは難しいこと。

しかし視点を変えれば、この多様性が人間社会のコミュニケーションの動力になっているのかもしれません。言語のギャップを埋めるために人々はお互いに言葉を尽くし、時には詩や物語という形式に託してメッセージを伝えようとします。

しかし仮に人類の究極の進化形態として言語における完全同一性(例えば「愛」という言葉から、全員が完全に同一の意味理解をする)が実現されたとしたら、いったい何が起こるのでしょう?

人々はお互いに理解し合い、心の平穏が訪れるのかもしれないし、あるいは新たな軋轢が生まれるのかもしれません。
(誤解に基づいた平和というものもあるでしょうから。)

どちらにしても私たちのコミュニケーションを支えていた何かが失われ、全く新しい世界が出現することでしょう。一つの思考実験として、じっくりと考えてみたいテーマではあります。