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みんな集まる[-fest]の付く英単語

英語で使う接辞の中には外国語に由来するものも多くあります。

そんな一つが、ドイツ語に由来し「人の集まり」を意味する[-fest]。

-fest

combining form (in nouns)

a festival or large meeting involving a particular activity or with a particular atmosphere

「Oxford Advanced Learner’s Dictionary」

例えば、どんな集まりがあるのか見てみましょう。

chinfest (俗)雑談会;自由討論(bull session)
funfest 懇親会、親睦会
gabfest (話)おしゃべりの会;長引いた会議
hoochfest (米俗)酒飲みパーティー、宴会(また hootch fest)
hopfest (米俗)ビールパーティー
Oktoberfest 十月祭:ドイツ Munich で1810年以来毎年開催される伝統的な祭り
rockfest (米)ロックフェスティバル
songfest (民謡・流行歌などの自然に沸き起こって大合唱となるような)歌の集い
talkfest 懇談会

*「ランダムハウス英和大辞典 第2版」より

こうして見ると、実にさまざまな集まりがあるように見えます。

。。。が、よくよく見ると、やっていることは「話すこと」「飲むこと」「歌うこと」くらいなもの。

人が集まってやることというのは案外限られているのかもしれません。

ヒトの本質が透けて見えるような語群だなあというのが率直な感想です。

 
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フィンランド語学習記 vol.284 − 話し言葉の私

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フィンランド語のポップソングを聞いていると、やはり教室で習っている言葉とは違う「話し言葉」が多く使われていることに気が付きます。

例えば、以前のエントリーで紹介したフィンランドのシンガーソングライター Sanni さんの曲に「Jos mä oon oikee」「Sotke mut」というタイトルの曲があります。

これらに含まれている mä / mut というのはどちらもフィンランド語の一人称代名詞。

しかしこれらの変化形は標準形の格変化一覧の中には出てきません。

以下に標準形の格変化と話し言葉の格変化を比較してみましょう。

標準形 話し言葉
主格 minä
属格 minun mun
分格 minua mua
対格 minut mut
内格 minussa mussa
出格 minusta musta
入格 minuun muhun
接格 minulla mulla
離格 minulta multa
向格 minulle mulle
様格 minuna muna
変格 minuksi muksi / muks

 

こうしてみると「標準→話し言葉」の変化では、どれも中程の[-in-]の部分が抜けてぎゅっと詰まっているのがわかります。

確かに日常会話でもっともよく使う代名詞ですから、短くできるならそれに越したことはないのでしょう。

日本語なら Boku が Bu、Watashi が Wi になっているような感覚でしょうか?

「髪を切る」は英語で何と言う?

本日はシンプルなテーマを一つ。

「髪を切る」は英語で何と言うでしょう?

おそらく学校で習うのは、使役動詞を使った次のような形でしょう。

I had my hair cut.
I got my hair cut.

〈have+目的語+過去分詞〉
「~をしてもらう」という意味で使い、have に強勢がある。くだけた言い方では have の代わりに get を使うことが多い。

「ロイヤル英文法」

これに対して、よりシンプルなのは次のような形。

I had a haircut.
I got a haircut.

hair と cut の間にあったスペースをぎゅっと詰めました。

こちらの方が冒頭の使役動詞を使った文より言いやすいと思うのですが、第一感、頭に浮かぶのはやはり使役動詞の方。

このあたりは学校英語の影響なのかもしれません。

また、ついつい口をついて出てしまうのは次のような形。

I cut my hair.

これだと自分で自分の髪を切ったことになってしまいます。
(もちろん本当にそうなら問題ありません!)

つまり日本語では「爪を切った」も「髪を切った」も同じ形になりますが、英語では実際に切った人が誰なのかによって形が変わります。

英語の方が理にかなっているような気もしますが、いかがでしょう?

at the eleventh hour(ぎりぎりのところで)

英語には数字を使ったイディオムがたくさんあります。例えばこんな表現。

at the eleventh hour

ぎりぎりのところで、土壇場[瀬戸際]で

『ウィズダム英和辞典 第3版』

なぜ11番目の時間が「ぎりぎり」という意味になるのでしょう?

これには諸説あるようですが、有力なのは新約聖書の「マタイによる福音書」に由来するというもの。

まず古代イスラエルでは、日の出から日の入りまでの時間を12分割していました。イメージとしてはこんな感じ。

(日の出)1st, 2nd, 3rd …… 10th, 11th, 12th(日の入り)

at the eleventh hour というイディオムのもとになったと言われているのは「ぶどう園の労働者の寓話(Parable of the Workers in the Vineyard)」と呼ばれている一節。

曰く、ある家の主人が、自分のぶどう園で働いてくれる労働者を探していました。

彼は夜明け(1st hour)に出かけ、労働者と1日1デナリオンで契約し、農場へと送りました。

続いて朝(3rd hour)に出かけてみると、広場にぼーっと立っている人がいたので、彼らとも1日1デナリオンで契約し、農場へと送りました。

さらに 6th hour、9th hour にも同じことをして、最後に夕方(11th hour)に出かけてみると、またまた広場にぼーっと立っている人がいたので「なぜ、何もしないで立っているのか?」と聞いてみると「誰も雇ってくれないから」との返事。

そこで彼は、彼らとも1日1デナリオンで契約し、農場へと送りました。

一日の終わり、早くから働いていた労働者たちは不満を漏らします。

「なぜ1時間しか働いていない人が、自分たちと同額をもらうことができるのか?」と。

主人が答えて言うには「友よ、私は悪いことはしていない。1日1デナリオンの約束をしたのだから、それを受け取って帰りなさい。」

このたとえ話からイエスは「神の国に入るのに遅すぎるということはない」というメッセージを伝えているのだそう。

自分自身はクリスチャンではありませんが、この話には何とも言えない余韻があって、最初に知ったときから深く心に残っています。

読んだ人の数だけ解釈が生まれそうな、そんな寓話ではないでしょうか。

April Come She Will(四月になれば彼女は)

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サイモン&ガーファンクルの名曲「四月になれば彼女は」の出だしは、こんな風に始まります。

April come she will

When streams are ripe and swelled with rain

この歌詞を見て、ちょっと疑問に思うところはないでしょうか?

それは April come の come にはなぜ[-s]が付かないのだろう?ということ。

しかし調べてみると、このオープニングラインは、

April come, she will

ではなく、

April, come she will

という区切りのよう。

つまり「四月が来る」のではなく「四月に彼女が来る」という意味だったんですね。

まあ言われてみれば、邦題もそうなっているじゃないかという話。

それにしても、なぜこんなややこしい倒置を用いているのでしょう?

それは冒頭の月を表す単語と同行の末尾の単語で韻を踏んでいるため。

April, come she will

When streams are ripe and swelled with rain

May, she will stay

Resting in my arms again

June, she’ll change her tune

In restless walks, she’ll prowl the night

July, she will fly

And give no warning to her flight

August, die she must

The autumn winds blow chilly and cold

September, I’ll remember

A love once new has now grown old

こうして全体を見てみると、まさにポール・サイモンの至芸!というのがよくわかります。

と、そんな細かい話はさておいても、この「四月になれば彼女は」は春になると聞きたくなる名曲。

新しい出会いに期待をしつつ、口ずさんでみるのもよいですね。

ボクと we

photo credit:  via photopin (license)

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日本語の「僕」は、男の子に対する二人称代名詞として使われることがあります。

大人:ボク、お腹空いた?
男の子:うん。

おそらく共感を示すために、相手の立場に自分を置く表現なのでしょう。

ただ「私」にはこのような用法がないのに、「僕」にだけこのような用法があるのは謎。

実際、相手が女の子の場合は、同等の表現が見当たりません。

そんなちょっと不思議な日本語の使い方。

しかし先日、英語の文法書をめくっていたら、英語にも似たような「一人称→二人称」の使い方があることがわかりました。

親心のwe

くだけた言い方で、たとえば、母親が子に、医師や看護師が患者に、教師が生徒に対して用いるもので、相手に対する親しみや同情を表そうとするものである。

Are we feeling better today?(今日は気分はよくなりましたか)

「ロイヤル英文法」

英語の場合は複数になっていますが、一人称代名詞を二人称として使うという点は同じ。

こういった視点の転換というのは、もしかしたら様々な言語に共通の現象なのだろうか? ということがちょっとだけ気になりました。

 
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