野にあるときも
年が明けて2019年。大晦日から新潟の実家に帰っています。帰省の新幹線に乗る際にいつも楽しみにしているのがJR東日本の車内誌トランヴェールに掲載されている沢木耕太郎さんのエッセイを読むこと。
大晦日の新幹線にはもう1月号が用意されていて、その回では金沢出身の作家、室生犀星についての話題が取り上げられていました。
室生犀星は学生時代に愛読した作家の一人。しかし今回のエッセイで沢木さんが書いていたように、詩人としての室生犀星を好きだったのか、小説家としての室生犀星を好きだったのか、エッセイの書き手としての室生犀星を好きだったのかを思い出すことができません。
そこで実家に帰ってから部屋の書棚を眺めてみると、岩波文庫の室生犀星詩集が置いてあるのを発見。学生時代の自分がこの詩集をよく手に取っていたことを思い出しました。
さっそくページをめくってみると、当時読んだ詩の数々が懐かしく思い出される、、、、ということは全くなく、何もかも忘れていました。
覚えているのは有名な「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」という抒情小曲集の一節程度。当然、それらの詩を読んで何を感じていたのかもきれいさっぱり忘れてしまっています。
それでもパラパラと詩集をめくっていると、今の感性でも純粋にいいなと思える作品が多く、昔の自分と今の自分がどこかでつながっていることが確認できました。
永日
野にあるときもわれひとり
ひとり たましひふかく抱きしめ
こごゑにいのり燃えたちぬ
けふのはげしき身のふるへ
麦もみどりを震はせおそるるかわれはやさしくありぬれど
わがこしかたのくらさより
さいはひどもの遁がれゆく
のがるるものを趁(お)ふなかれ
ひたひを割られ
血みどろにをののけど
たふとや われの生けること
なみだしんしん涌くごとし
正月三が日は久しぶりに再会した犀星の世界に浸ってみようかなと思っています。