わたしとあなたの境界線
ある日「ロイヤル英文法」をめくっていると、こんな記述が。
親心のwe
くだけた言い方で、たとえば、母親が子に、医師や看護師が患者に、教師が生徒に対して用いるもので、相手に対する親しみや同情を表そうとするものである。
Are we feeling better today? (今日は気分はよくなりましたか)
普段よく使う we にはこんな用法もあるのですね。限りなく二人称に近い一人称という感じでしょうか。
とはいえ、この文(Are we~?)が実際の会話や文章の中に出てきたら、上記の解釈をせずに、話し手も気分が悪かったのかと誤解してしまいそうです。
ネイティブスピーカーの人は、そんな誤解をすることもなく、すっきりと意図を理解できるものなのでしょうか?
「私たち」は誰を指している?
普段あまり意識することはありませんが、英語で we というときには、聞き手(話し相手)を含めている場合と、含めていない場合の2通りがあります。
例えば、友達を連れてニューヨークに旅行し、ボストンへ向かう電車の中で声をかけられたとしましょう。
そこで「We’re from Japan.」と言えば、もちろん we の中に聞き手は入っていません。しかしふと正しい電車に乗ったのか不安になり「Are we heading for Boston?」と聞けば、we の中に聞き手も入っていることになります。
その際、もし聞き手が自分は we に含まれていないと解釈すれば「あなたたちがボストンへ向かっているかどうかなんて知らないよ!」となるはずです。しかし実際には一蓮托生「私たちが乗っているこの電車はボストン方面行きなのか?」と解釈するのが普通でしょう。
このあたりは、言語の柔軟性がよく現れている例だと思います。
別の言い方をすれば、冒頭に紹介した「親心のwe」も含めて、一人称(わたし)と二人称(あなた)の境界線というのは意外とあいまいなものだと言えるのではないでしょうか。
一方、インドネシア語やベトナム語では、聞き手を含めるかどうかによって、一人称複数の代名詞が2種類あり、聞き手を含めるものを「包括形」、含めないものを「除外形」と呼ぶのだそうです。
「私たち」に聞き手を含めるかどうかを、英語では文脈に委ね、インドネシア語では単語の選択に委ねる、その違いが人の思考様式にも違いを生み出すのか、そのあたりを調べてみたらおもしろそうな研究になりそうな気がします。いかがでしょう?
ロイヤル英文法改訂新版
価格: ¥1,500(記事公開時)
カテゴリ: 辞書/辞典/その他, 教育
App Storeで詳細を見る