前後ありといへども、前後際断せり
前後際断(ぜんごさいだん)
前際(過去)・後際(未来)が断ち切れていること。或いは前後の際(あいだ)が断たれていること。現在の状況を過去や未来と対比させてみるあり方を否定すること。…
最近読んだ本の中で一番ワクワクしたのが『すらすら読める正法眼蔵』という一冊。
これは鎌倉時代の禅僧、道元禅師(1200-53)の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の抜粋に宗教評論家のひろさちやさんが現代語訳と解説を加えたもの。
正法眼蔵の原著は87巻から成る大著であり、分量的にも内容的にも素人が読破するのはなかなか難しいと思いますが、この本ではそのエッセンスをわかりやすく教えてくれます。
膨大な世界の一端を覗いているだけという謙虚さは持ちつつ、ページをパラパラとめくっていると実にさまざまな発見があります。
今回は正法眼蔵第1巻の「現成公案(げんじょうこうあん)」より、特に心に残った一節を紹介してみたいと思います。
たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
私たちは、薪(たきぎ)が燃えて灰になるとき、薪が灰に変化したと考えます。
しかしそうではない、薪は薪という本質において前と後があり、灰は灰という本質において前と後があるのだと。
道元禅師は、人間の生と死もまた同じであると語りかけます。
かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。
薪は灰になった後に薪になることはない。人も死んだ後に生き返ることはない。よって生が死になるということもない。
このあたりのロジックは少しわかりにくいかもしれません。
もう少し続きを見てみましょう。
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
季節の移り変わりを考えたとき、冬が春に変化したり、春が夏に変化したりするのではない。
冬は冬という本質において前と後があり、春は春という本質において前と後があるのだと。
この季節の例えは、薪と灰の例えより、もう少しわかりやすいような気がします。
春夏秋冬を一続きのものとして考えるのではなく、時には「前後裁断」して考えること。
一日一日を一続きのものとして考えるのではなく、時には「前後裁断」して考えること。
そういった思考が、せわしない日常を乗り切る上で力になってくれることもあるのではないでしょうか。心に留めておきたい言葉です。